雷おこしの歴史

おこしの歴史は非常に古く、約1000年ほど前に出された当時の百科事典『倭名類聚抄』に、 おこしについて文選法に曰く“「米巨米女おこしごめ」は蜜を以て米に加え煎りて作るなり”と出て おります。その起源については、唐(中国)から渡ってきたものであるとか、保存食・携帯食として 使われていた「ほしい(注1)」が訛ったとか、いろいろな説がありますが、いずれにしてもかなり古い時代から私たちのお菓子として親しまれてきました。そうしたことから今でも各地でおこしが作られて おりますが江戸っ子育ちの「雷おこし」は江戸時代後半から、浅草で売り始められました。

(注1)ほしいい(・・いひ)【干飯・乾飯・糒】
米を蒸して乾燥させた食料。貯蔵用の乾燥飯。湯水に浸せばすぐ食用となり、兵糧や旅行の際などに用いた。 後には、夏季に冷水に浸して賞味したりした。かれいい。道明寺。ほしい。

浅草寺誌によりますと、徳川十一代将軍‘家斉’(1787~1836)が浅草寺の総門・雷門(慶応年間火災で 焼けたもの、広重などの錦絵に出てきます)を再建した寛政七年(1795年)頃の記録に出ておりますので 約二百年前から作られ、売られていたと思われます。

その「雷おこし」の名称は、皆さんご存じの雷門(正式には風雷神門)に由来します。この門は名前の通り 風神・雷神を祀ったものですが、いつの頃からか雷様だけがスターになってしまい、古川柳に “風神の居候する雷門”と言われるほど風の神様はかすんで門の名前まで“雷門”となってしまいました。
「雷おこし」は、この名をとってブランドネームとし、四万六千日(ほおずき市)観音様ご開帳の日に 「“ほおずき”と“雷おこし”は雷除けのおまじない」などというキャッチフレーズで売られました。もちろん 当時は境内の掛小屋で売られていたものですが観音様参詣のおみやげに無くてはならぬものとなり、 「家を起こす」「名を起こす」縁起を喜ばれて売上も急上昇していきました。明治の中頃には、雷門脇 (と、いっても門はありませんでしたが・・)の現在地に店舗を構え、現在では東京を代表する銘菓として全国に知られております。

また、「雷おこし」の特徴は原料に最高のお米を使い、砂糖を主体としたソフトな仕上がりを喜ばれ、 大阪の板おこしと対比され、江戸前のおこしはご年輩から小さなお子さままで万人向きと言われておりました。

第二次大戦で浅草は焼け野原となりましたが、甘味を求める人々のご期待に応えて営業を再開、 発売の予定時間には長蛇の列ができたと言われています。それから時が過ぎ、人々の嗜好は変わりましたが、“雷おこし”はそうした味の変化に応え、よりソフトに、しかも甘味をできる限り抑え、新しくピーナッツなどの副原料の添加で、今も浅草観音様と同様にご愛顧いただいております。

ライブラリー

明治30年代の店舗と市電
現在の地に常盤堂が店を構えたのが、明治25、26年頃言われ、その後、約10年後の写真。
戦前の常盤堂(昭和10年ごろ)
当時としては、堂々たる店構えで、従業員もモダンなユニフォームで勢揃い。
戦後の雷門周辺
現在の雷門はもちろん、戦火で焼失した本店も見えない。マラソン大会でのスナップ。
昭和20年3月の東京大空襲で浅草は全滅
戦後再建したバラック建物。資材不足でおこしはすぐ品切れ。やむを得ず、陶磁器を販売していた。
戦後の本店と全従業員
元旦朝6時、本店・工場の全従業員が揃って浅草寺に参拝、記念写真を撮るのが恒例でした。
旧雷門本店(昭和26年)
この頃になると商品も揃い、店内も整備されてくる。当時としては、珍しいカラー写真。
旧雷門本店に郷里の小野上村(群馬県)のお客様を迎えて・・・
昭和29年ごろの雷門本店
当時としては、破格の豪華建築。カメラファンで賑わった。
雷門本店と消防出初め式
将来の雷門再建を想定して建てられた本店。江戸消防のハッピ姿とよく似合う。
昭和30年代前半の雷おこし売場
ケースの上の袋入りは50円、100円、200円。おこしは、伊達丸1ヶ50円。上角、磯部、各2円。 胡麻、柱、八千代、各1円。バラ売りはすべて手作業にて販売。
旧本社
昭和36年11月17日落成式にて。
ニッポン放送雷門サテライトスタジオ
本店1階に開局したスタジオ。ここから生放送が、全国に流れていた。